2026年の日本。
スマートフォンで銀行送金ができる。AIが法律文書を要約してくれる。自動運転車が公道を走っている。
なのに、受発注の現場ではFAXが動いている。
ファイン・アート・クオリティ……ではない。ファクシミリ。紙を送る機械。1843年にスコットランドの時計職人アレクサンダー・ベインが発明した、あの技術の末裔だ。
日本のFAX出荷台数は世界シェアの約半分を占めている。先進国の中で、これほどFAXが現役の国は他にない。
数字で見るFAXの現実
FAX利用率
総務省「通信利用動向調査」によると、日本企業のFAX利用率は徐々に低下してはいるものの、2020年代半ばの時点でもなお相当な割合が残っている。
特に中小企業の利用率が高い。大企業がメールやEDIに移行しても、取引先の中小企業がFAXしか対応していなければ、大企業もFAXを使い続けるしかない。
業界別の偏り
FAXが特に根強いのは以下の業界だ。
| 業界 | FAXが残る理由 |
|---|---|
| 建設・不動産 | 図面の送付、下請けとの発注書のやり取り |
| 製造業 | 部品の発注、納品書の確認 |
| 卸売・小売 | 取引先への発注、価格表の送付 |
| 飲食・食品 | 食材の仕入れ発注(毎朝のFAX注文) |
| 医療 | 処方箋の送信、院外薬局との連絡 |
| 官公庁 | 各種届出、連絡文書 |
共通するのは**「相手がいる」業務**だということ。自社だけの判断では変えられない。
FAXが残り続ける4つの構造的理由
理由1:取引慣行のロックイン
受発注業務には「発注する側」と「受注する側」がいる。
発注する側がFAXをやめたくても、受注する側がFAXしか対応していなければ、やめられない。受注する側がFAXをやめたくても、発注する側が「発注はFAXで」と言えば、やめられない。
これは二者間のロックインだ。どちらか一方だけでは解除できない。
しかも実際の取引は二者間ではない。1社の取引先が50社あれば、50社すべてがFAXをやめない限り、完全な脱FAXはできない。1社でもFAXを要求する取引先があれば、FAX機は残る。
チェーンの最弱リンク
サプライチェーンで考えると構造がよく分かる。
メーカー → 一次卸 → 二次卸 → 小売店
メーカーがEDIを導入しても、一次卸がEDIに対応していなければ、一次卸とのやり取りはFAXのまま。一次卸がEDIに対応しても、二次卸が対応していなければ、二次卸とのやり取りはFAXのまま。
チェーン全体がデジタル化するには、すべてのリンクが同時に移行する必要がある。1つでもFAXのリンクが残れば、チェーン全体はFAXを使い続ける。
これが「もう少し待てば自然にFAXはなくなる」が実現しない理由だ。待っていても、最弱リンクが移行しない限り変わらない。
理由2:法制度と商慣行の慣性
電子帳簿保存法
2024年1月から電子帳簿保存法の電子取引データ保存が完全義務化された。電子的に受け取った取引データ(メール添付のPDF等)は、電子データのまま保存しなければならない。
これはデジタル化を促進する法改正……に見える。だが、FAXで受け取った書類は「紙の原本」として扱われる。つまりFAXを使い続ければ、電子帳簿保存法の電子取引要件に対応する必要がない。
皮肉なことに、デジタル化に対応するコストを避けるために、FAXを使い続ける動機が法律によって生まれている。
注文書・発注書の「原本」信仰
日本の商慣行では、注文書や発注書の「原本」に強いこだわりがある。メールで送った注文書より、FAXで送った注文書のほうが「正式」と感じる経営者は少なくない。
法律上は、メールもFAXも電子メディアの一種であり、法的効力に差はない。だが「これまでそうしてきた」という慣行の力は、法律の条文より強い。
理由3:世代とITリテラシー
中小企業の経営層の平均年齢は60歳を超えている(中小企業庁「中小企業白書」)。
この世代にとって、FAXは「使い慣れたツール」だ。紙を入れてボタンを押せば送れる。送信確認書が紙で出てくる。受信も紙で来る。画面を操作する必要がない。
一方、クラウドの受発注システムは「ブラウザを開いて、ログインして、受注一覧から該当の注文を選んで、確認ボタンを押して、PDFをダウンロードして……」。ステップが多い。
FAXは3ステップ。クラウドは10ステップ。
若い従業員がいれば「慣れればクラウドのほうが速いですよ」と言えるが、従業員も高齢化している中小企業では、「慣れるまでの学習コスト」自体が負担だ。
「紙のほうが信頼できる」の心理
これは合理的な判断ではなく、認知バイアスだ。
紙は物理的に存在する。触れる。ファイルに綴じられる。「ちゃんとある」と感じる。
デジタルデータはどこにあるか分からない。クラウドの中。サーバーの中。「消えるかもしれない」「ハッキングされるかもしれない」。見えないものへの不安。
実際にはクラウドストレージのほうがFAXの紙より遥かに安全だ。紙は火事で燃える。水に濡れたら読めない。紛失したら二度と取り戻せない。クラウドはバックアップがある。暗号化されている。アクセスログが残る。
だが、安全性の比較では心理的な安心感に勝てない。
理由4:移行コストの非対称性
FAXを使い続けるコストは、見えにくい。
FAX機のリース料は月数千円。トナー代と通信費を合わせても月1〜2万円。これは「既に払っているコスト」であり、経営者が意識的に判断して支出しているわけではない。
一方、FAXをやめてクラウド受発注に移行するコストは、見えやすい。
- システムの導入費用(初期設定、データ移行)
- 月額利用料(明確な「新しい出費」として認識される)
- 従業員の研修時間
- 取引先への説明・説得
- 移行期間中の二重運用コスト
「今のままのコスト」は見えない。「変えるコスト」は見える。 行動経済学でいう現状維持バイアス(Status quo bias)だ。
人間は「失うリスク」を「得る利益」の2倍以上に感じる(プロスペクト理論)。FAXをやめることで「使い慣れたツールを失う」リスクは、クラウド化で「業務効率が上がる」利益の2倍に感じられる。
だから変えない。
河野太郎の「FAX廃止」宣言
2020年、当時行政改革担当大臣だった河野太郎が「霞が関のFAX廃止」を宣言した。
結果はどうなったか。
2021年6月、一部の省庁からFAXを残す要望が出て、完全廃止は撤回された。「感染症の状況報告」「災害時の連絡」など、FAXでなければ対応できないとされた業務があったためだ。
中央省庁ですらFAXを完全に廃止できなかった。民間企業にとって、状況はさらに厳しい。
ただし、河野大臣の宣言には効果があった。「FAXを使っていること自体が問題だ」という認識が広まった。2020年以前は「FAXは当たり前」だったのが、2020年以降は「FAXはできれば減らしたい」に変わった。認識の変化は、行動の変化の前提条件だ。
海外との比較
アメリカ
アメリカでもFAXは残っているが、日本ほどではない。特に医療分野ではHIPAA(医療保険の携行と責任に関する法律)の影響でFAXが根強いが、ビジネスの受発注ではほぼメールやEDIに移行している。
ドイツ
ドイツはFAX利用率が比較的高い先進国として知られていたが、2020年代に入って急速に減少。連邦政府が「デジタル化法」を推進し、行政手続きのオンライン化を法律で義務付けた。
韓国
韓国は1990年代後半のアジア通貨危機をきっかけにIT化が急速に進み、FAXはほぼ姿を消した。政府主導のIT投資と、若い人口構成が背景にある。
日本が「取り残された」理由
日本のFAX残存率が高い根本原因は、技術の遅れではない。
- 中小企業の割合が高い(全企業の99.7%)
- サプライチェーンが長い(多段階の卸売構造)
- 取引先の変更コストが高い(長期的な取引関係を重視)
- 高齢化が世界で最も進んでいる
これらの構造的要因が重なって、「FAXを使い続ける」のが合理的な選択になってしまっている。
FAXをやめるための現実的なステップ
「明日からFAXをやめよう」は機能しない。構造的なロックインを解除するには、段階的なアプローチが必要だ。
ステップ1:受信だけをデジタル化する
FAXを送り続ける相手に「やめてくれ」とは言いにくい。ならば、受信側だけを変える。
FAX複合機の設定で、受信したFAXを自動的にPDFに変換してメールに転送する。あるいは、eFax等のクラウドFAXサービスを使って、FAX番号はそのまま、受信だけをデジタルにする。
取引先は今まで通りFAXを送る。こちらはPDFで受け取る。紙は出力しない。
ステップ2:新規取引先からはデジタルにする
既存の取引先にFAXをやめろとは言いにくいが、新しく取引を始める相手には「うちはメールで発注書を送ります」と最初から伝えられる。
新規取引先が増えるほど、FAXの比率は自然に下がる。
ステップ3:影響力のある取引先から巻き込む
取引先の中で最も発注量が多い上位5社に、デジタル移行を提案する。上位5社がデジタルに移行するだけで、受信FAXの半分以上が減ることも多い。
残りの小口取引先は、クラウドFAXでPDF受信しながら徐々に移行する。
FAXがなくなった世界
FAXが完全になくなった世界を想像してみる。
朝、出社してパソコンを開く。受発注システムの画面に、昨日の注文が一覧で並んでいる。取引先名、品目、数量、単価、合計。すべてデジタルデータだ。
このデータをそのまま会計ソフトに連携すれば、請求書が作れる。全銀フォーマットで振込データを出せる。在庫管理システムに反映できる。
FAXで受け取った注文書を、人間が目で読んで、手で入力して、別のシステムに打ち込む。この工程が丸ごとなくなる。
それが「FAXがなくなった世界」だ。データが紙を経由せずに、システムからシステムへ直接流れる。
まとめ
日本の受発注がまだFAXなのは、技術の問題ではない。構造の問題だ。
- 取引慣行のロックイン:二者間の合意がなければ変えられない。チェーンの最弱リンクがFAXなら、全体がFAXになる。
- 法制度の慣性:電子帳簿保存法が逆にFAX継続のインセンティブを生んでいる。
- 世代とリテラシー:経営層の高齢化と「紙のほうが安心」の心理バイアス。
- 移行コストの非対称性:「今のまま」のコストは見えず、「変える」コストは見える。
これらは技術の進歩だけでは解決しない。認識の変化、取引先との合意形成、段階的な移行計画。FAXをやめるのは、テクノロジーの導入ではなく、組織と取引関係の変革だ。
1843年に発明された技術が2026年にまだ現役。これは「日本が遅れている」のではなく、「構造的にFAXが合理的であり続けてきた」の結果だ。その構造が変わるかどうかは、個々の企業が「変える」と決めるかどうかにかかっている。
この記事の情報は、総務省「通信利用動向調査」、中小企業庁「中小企業白書」、各種報道資料に基づいています。